博士

昨日の日記は草稿のまま投稿してしまったsweeです。
本当はあの後ろに以下の文がついていました。

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そういえば会報届いていて良かったです。
なくしたのかと思いました。
なくしたりしたら大変よ。わっはっはっはっは。へい!
OL風とか萌え死にますね。


といったあたりでお開き。

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で、まず一昨日(6日)の話になりますが、埼京線を使って帰りました。
通学路線をJRに変えたわたし、
最近は渋谷の新南口から改札を通ることもあり、
そこから長い道を通って山手線まで行く訳なのですが
たまたま来た埼京線からりんかい線の新木場行きに乗って大崎、
そこから山手線に乗り換えるというテクを。
これは良いかもしれません。
ちなみに昨日は湘南新宿ライン国府津行きで大崎乗り換えしました。
が、これは失敗でした。大崎の直前で停止信号で5分ほどタイムロス。

とにかく、JRは楽しいですねぇ。



着やせというものは存在しない。考えてもみよ、人が服を着てやせて見えるはずないのだ。服の分体積は増えるのだから。
着やせがあるのは人のイメージだけなのだ。
つまり…比較!
他の人の服装をみて、その人の体のイメージを脳に描く。多数の人のイメージを描き続ける。これによりイメージが固まる。
しかし、なんらかの原因によってそれまで描き続けて固まってきたイメージよりも、体が大きい割に服で増える体積が少ない人物が生じてくる。
こいつが着やせだ。
この勝手に描くイメージが、違うのみの現象を着やせというのだ。
これはパブロフの犬と同じようなもので、人それぞれ体型とは関連性のないものでありながらも、それらからイメージする感覚によって人の体を想像しているから起こるのである。
目の錯覚で着やせしやすい服というのがある。が、これはうそである。
同じ服でも違う人に着せればイメージはまったく異なってくるからである。故に、彼女は着やせするタイプだね。という言葉は成立しない。
だが、事実上一般的に服の分増える体積よりも、増えない服を着ている場合もある。それは着やせではなく、ぴったりな服を着ているだけなのだが、着やせと表現してしまう場合もあるだろう。
。それはまず、先に述べた、イメージが先行しているからこその思考である。一般的に服の分増える体積って、そんなの誰がわかるのだろう。人をいちいち脱がせたのだろうか?いいや、我々一般人はそんな統計を取れるほど人の体型がわかるまで脱がせるような行為をすることは一生ないと言って良いだろう。つまり、事実として認識しているごく一部の情報からの判断で、イメージをふくらませているに過ぎないのだ。そして、ぴったりの服を着ているというのはそれを着ている時を指すのであり、それ以外のときには着やせと呼ばないのだから、「着やせするタイプ」というような表現は使えない。
つまりは先入観だ。
これが頭の中にあり、その比較基準と照らし合わせ、着やせ着太りなど判断しているに過ぎない。脳内での印象でしかないのだ、着やせは。

だが胸が小さいと着やせするよね。
ロングコートとか着てさ、ちょっとだけ胸部が隆起しているとか、萌えるよね。顔も小さめでロリ系統だと、間違いなく着やせだね。

いいや違う。それは君のイメージする体より、事実上の体が小さかったか、たまたま服がフィットしていたか、たまたま目の錯覚を起こす角度だったのだ。

デザインって重要だよね。ウエストは絞ってあると明らかに着やせだよね。

それだ。その一般人はウエストが絞れない体型の人ばかりだという先入観がそのイメージをもたらしている。単にスタイルの良い人が、スタイル良くセンス良く服を着こなしているだけなのである。ぽっちゃり系が服を着て、やせているように見えたことがあるか?あるとしたら、そいつはよほど、脂肪か肉がより太く見える体質だったのだろう。人生損しているかもしれない。どんなにセンスの良い服を着ても、せいぜい太さは同程度に見え、着やせというよりはいろいろな意味で見直したというような結果にしかならないのではないだろうか。
着やせという言葉を使う人物は、先入観の固まりか、はたまた人の体と服に詳しい博士か…どちらかであろう。



ぷ。
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